昭和41年12月06日 朝の御理解



 「神の綱が切れたというが、神からは切らぬ。氏子から切るな」「神の綱が切れたというが、神からは切らぬ。氏子から切るな」と。どう言う様な事だろうかと。例えば一心にお縋りをさせて貰う。一生懸命お参りをして居る。一生懸命まあ修行して居る。それでもおかげを受けられない。その事だけはどうでもとこう、お願いをさせて頂いておったけれども、それがおかげを受けられない。これだけお願いしてもおかげ受けられんところは、もう神様から見捨てられた。
 神の綱が切れたんじゃと、と言う様なことを思うたり言うたり致します。もう神様から見捨てられたんだと、そういう気持ちになります。そういうこたぁないて、ね。神から切るような事は決してせんから、氏子からそういう時に、そういう気持ちになるなと、ま言う様な事に、まぁ頂いておりますねお互い。それもそうですけれども私はそれをですね、どういう事かとこう思う。物事何にでも一つの余裕というか、ゆとりというか、そういうゆとりのある信心をせよ、ということだと思うですね。
 私はこの御理解に対するまあ、いわゆる新しい解釈ですけれども、はぁこういうことばいなと思うのですね。こちらゆとりのある信心を。いつもそのなんていうですか、張り詰めたような何かそこに、張り付いた様な只そこにこう一途に、おうチャーとこう綱引っ張った様なですね、その感じでの信心ではです、ほんとにちょっとこう傷でも入ったらプツッと切れそうな感じがしますです、ね。今日でもこの綱なら綱に、ゆとりを持ってしっかり握ってはおかれん訳なん。
 これは切れようとも切れようがない、ね、こうシャーとこう引っ張っとるから、もうちょっと刃でもちょっと当てられると、もうプツッと切れて仕舞う。これはもう私の反省であり、私の過去のま、云うならば神乍らと言やあ神乍らですけれども、本当にいたみないことだったなぁと、自分で思うことが有るんです、ね。二十年前ですね、なりますか、丁度あの問題が次々とありまして、私と親教会の間にもね、親先生がほんとにあの、ま大変怒られましてね、まそれこそ、親でもなからにゃ子でもない。
 三井教会の信心にあんたどんの信心はないて、言う様な事を御結界から仰せられた時にです、私にあん時まちっとゆとりがあったらですね、それをあの五年間なら五年間という、そういう風にならなくて済んだんだと思うですね。はぁ親先生が今感情で一杯であられる、成程腹も立たれるかも知れん。人の中傷を聞かれたりすると、成程あげんなるかも知れん。ま、黙って堪えてから、又先生が機嫌が良い時に、お詫びにでも出たら何でもなかったかも知れん。
 どちらもほんとに親教会一途で一生懸命、こうやって引っ張っとるもんですから。もうそのちょっと当たった途端に、プツッと切れただけでなくて、もう後へひっくり返った感じなんです。一生懸命引っ張っとるもんだから、ね。成程それは、まぁ周囲から見てもです、成程ほんとにもうあれだけ一生懸命、例えばま、大坪さんがしようとに、あんなこと言いよんなさるなら、もういくら大坪さんでも、もてまいと言う様なです、一つのほんとのもてなかった訳なんです。ね。
 そして五年間という間溝が出けた。まぁ後から考えますとです、あの五年間のおかげで、ならあの五十年の記念祭なんかはね、出けたんですよ。ほんと言うたらね、お参りはしないけれども、やはり私の心の中には、まぁ例えば、お初穂だけは毎日毎日ちゃんとこうにかけておった。だからさぁんなら、五十年祭の時に復帰しようとする時には、それでほんとに、まぁいうなら思う存分の御用も出けたんですよね。
 だからそれも御都合であったでしょうけれども、ほんと言うたら疎遠が出けたり疎遠になったり、いわゆるプツッと切れたりしてはいけなかったと思うんですね。あぁいう時にもっと素晴らしいゆとりのある、信心でおっておかげ受けたらもっと、私はおかげを受けただろう徳を受けただろうとこう思いますね。「神の綱が切れたというが、神からは切らぬ。氏子から切るな」と。それが神様のそれこそ、試す上にもたらされる場合なんかは、もうお前のような者な、信心することは要らんと。
 もう踏んだり蹴ったりはねのけされる様な、いうならばから見ればほんとにあれだけの信心しよってどうしてあげな貧乏せんならんじゃろうか。どうしてあげん次々難儀な事が起こるじゃろうかと、言う様な時にですね、ま、いうならばこれは鋭利な刃物を当てられるようなもので、切り刻みされるようなもの。それを私共がその只一生懸命、綱引っ張っておるというだけではですね、ほんとにプッツリ切れて仕舞うだけではない。ほんとに後にひっくり返らなきゃならないね。
 例えばあのゴンブナ引きを思うたがええです。一生懸命両方から引き合っとる。それがちょっと傷が出けたら、そっからプツッと切れる。もう両方の者がひっくり返らんならん。私共がおかげ落とすだけじゃない。やはり神様も後ひっくり返らっしゃらなならん。私だけがおかげ落とすだけじゃない。ま、善導寺としてもです、私が五年間疎遠になったということは、マイナスであったろうとこう思うのです。ま、過去のことを思うと、それは単純ですねえ、だから信心ちゃもう限りが無いですね。
 豊かな心とかゆとりとか言う事は。そういう信心をせよと、私今日その事を頂いて初めて、成程と合点させて貰った。それもそれによく似た様な事柄が、今日はあぁ言う事になってるんです。その事を私いわゆる椛目的一つの難儀なんですね。そしたらね神様から私があのお知らせ頂いたのにね、ここに毎朝久留米の山村さんちゅうて、あのお茶屋さんがこの頃、毎日参って見えるでしょう。あの人を頂くんですね。ほほうそしたら次頂くのが、あのこう餡子を今にもそうな破れ饅頭ちゅうのがありましょうが。
 破れ饅頭を頂きますもん。そこで思うたんです。その山村さんはですね、ヤマムラミノルと言うんですよねお名前が。実という字ですね。例えていうならばですね、んなら大坪の家なら大坪の家と、椛目なら椛目というのが、いわゆる大坪挙げて修行せんならん時にゃこりゃ山村でしょうね。いわゆる大坪村がもう一生懸命、もう大坪村一家が、いうならば山登りをしておる時だということなんです、ね。それを例えばほんならはぁどうした今難儀な事だろうかというたら、もう修行なならんのです、ね。
 一家なら一家を挙げてですね、その修行に取り組ませて頂いて初めて実るおかげが受けられるんだと。云うなら側からみたらです、周囲からみたらです、もう何と術なかこっちゃろうかと、まほんにあれでやっぱり癇癪玉の破裂するとも当り前、それこそこんなこと言われるじゃろうかと、言われるような時でもです、いわゆる私が破れ饅頭を頂いてそれを思うたです。もう側のもんがもてん。先生方はあげん黙って辛抱しよんなさるけれども、もう側のもんが承知出けんという位にです。
 側のもんがもてんちゅうごたる様な事柄を、それを修行として受けさせて頂いたらね、そういう修行でなからなければ本当なものにはならんということを私は思うた。山村実ね。それにはです、例えどう言う様な事があってもです、ね、プツッと音を立てて切れるようなことがあってはならんという事。一生懸命で引っ張っとるそのゴン綱がですね、ちょっと傷がある、ちょっというなら刃物を立てられる。ちょっとえげつないことを言われる、ね、それこそ心がこちら心が切り刻まれるごたる時でもです。
 こちらがやわいものであって、柔軟性のある信心をしておったらです、それは切れないです。ズーッと引っ張っとるからプツッと切れるのですね。そこにこちらゆとりのある信心を、握るところだけはしっかり握っとかなならんけども、その心の中に、そういう一つのゆとりのある信心をさせて頂いておると、そういう時に山は山として、いわゆる修行を修行として受けることが出来る。椛目を挙げて、んならそういう椛目村がね、その事に修行として受けさせて貰うゆとりを、こちらが頂いておるとです。
 そこに次に実ることになってくる、おかげになるでしょう。しかもほんとに、はぁ大坪一家は今は何と術ないことだろう、椛目、椛目全体今ほんとに、大変な修行の事であろうと、こう側のもんが見て思う位な、例えば術ないなら術ないような事柄をです、それを術ないではない、有難しと元気な心で、受けて行く修行をさせて頂いたらです、ね、それを修行と修行を修行として、神様受けて下さるのであるから、必ず実らん筈はないという訳なんです。皆さんほんとに苦労と思うちゃいけませんね。
 どうでも信心なですね、一つゆとりのある、信心をさせて貰わないけませんよね。余裕のあるゆとりのある信心。私が二十年前に初代の親先生から、こげなこと言うちから、こっちはこげん思うとうとにと、言う様な生き方でいっとうもんですからね。まいうなら悪口雑言言われるから、そげんも私の信心が、ならここのお広前に邪魔になることならば、私がここをウロウロすることじゃないて、言った様なことでプツッと切れてしもうた様な感じであった。
 あれを私が黙って頂いて、これは親先生じゃない、神様が修行させて下さりよるとじゃ、又先生の気分のよろしい時に、又分かりなさらんこともなかろうと、ゆとりのある信心しとったら、五年間の疎遠はしなくても、よかったろうとこう思うのです。こういう中からね、神の綱が切れたというが、神からは切らぬ、氏子から切るなと。ということはです、私が今迄頂いておった解釈も、その通り頂かないけんと思うですね。
 どういう事があってもです、もう神様から見捨てられたと、言った様な思い方はいけません。それは自分からいわば、綱を切るようなものだ。神からは切らんと仰せられる、ね。それをもういっちょ深めて頂くことは、どう言う事かというと、信心にゆとりを持てということ。ゆとりのある信心をせよということ。どんな場合でもそれを山として、受けていく信心をさせて貰うということ。挙げてそこに実るおかげを頂かれると。
 もうごと辛抱出けんいうごたる、例え術ないところを通らせて頂きよっても、それが術なければ術ない程、難儀が大きければ大きい程です、神愛は又大きいんだと、分からせて貰って、それを合掌して受けていく様な、心の状態にならせて頂いたら、いくら切ろうとしても切れるだんじゃない。ゆとりのある信心とは、そう言う様な私は信心だと思う。どうぞ、ゆとりのある信心をさせて貰いたいものじゃ。